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【連載】祖父の第二次世界大戦①

母の旧姓は「味噌」です。



またまたご冗談をーw

と思われるかもしれませんが、


マジです(笑)




母は日本最北端である「利尻島」の出身です。

利尻島には「味噌」という名字の世帯が多いのです。


幼い頃から、毎年夏休みになると、私は利尻島の祖父母の家に遊びにいっていました。


人口は約5000人。

当時、島にはコンビニもスーパーもなかったので、生活必需品を買う時は、隣の稚内まで船で渡るような生活でした。

そのため、利尻島に行く時は、稚内の「西条」というスーパーに必ず立ち寄り、食料を買いこみます。



利尻行きの船は、カモメのイラストマークがシンボル。


父の車で船に乗り込むと、私は兄弟たちと共に甲板に出ます。

力強い潮風の匂いと、どこか寂しげな海の様子、空に広がるカモメの群れの光景が、最北端にいることを五感で感じさせてくれるんです。

かっぱえびせんを指ではさみ、窓から手をのばすと、カモメが直接食べにきてくれたりね。






母の実家は、鴛泊という地域です。

昔ながらの広い平屋で、子供たちが走り回る度に、年季の入った木の床が「ギシッギシッ」と音をたてます。

なんだか家も喜んでいるみたいだなぁっと子供ながらに感じていました。

「トトロ」に出てくるような屋根裏は、特に私の心をわしづかみにしました。

秘密の隠れ家に忍び込んでいるような感覚がたまらなく楽しかったな。




祖父は昆布漁とウニ漁を専門にした漁師なので、島にいくと、一家総出で昆布干しを手伝います。

漁ができる日は、「旗」があがるんです。

そして、早朝から「今日は昆布の旗があがりました。」と町内放送のスピーカーが鳴り響きます。


祖父が小型の船で、昆布をどっさり乗せて帰ってくるのを浜辺で待っていると、ゴマアザラシが顔を出し可愛らしい姿をのぞかせてくれます。北国ならではの光景に胸が躍ったものです。






島の滞在期間は、その年によって変動がありましたが、大体3~5日ほど。

その中の1日は、家の裏手でバーベキューをするのが恒例です。

祖父が採ったウニやらアワビやらの海産物を惜しげもなく焼き、お腹も心もいっぱい。

夜になると、子供好きな母の兄が子供たちを囲炉裏の前に集め、怖い話を語ってくれます。

その話を聞いた後は、肝試し。

2人1組でろうそくを持ちながら、家のまわりを1周して帰ってくるというシンプルなルールでしたが、大冒険でもするように、1歩1歩の足取りがまるで異世界への道に繋がっているような感覚になりました。




幼少期より、母の実家が「利尻島」というのは、ちょっとした私の自慢でした。

北海道とはいえ、「利尻島」に知り合いがいる人は珍しいのです。

当然、友人たちからも羨ましがられたものです。


小学生の頃、母の布団で一緒に寝ていると、よく子守唄がわりに利尻島島唄を歌ってくれました。

私のお気に入りの歌の一つです。


「島を愛する」

♪山高くして 夢があり
♪山高くして 歌がある
♪ここ最果ての 利尻よ礼文
♪君をたずねて 姫沼悲し
♪我ら島を愛して 旅を行く





利尻島に溢れる自然が、私は大好き。

風、花、海、山、空。

その全てが、個々に意思を持ち、この最北の地で、力強く生きているように感じるんです。














そして、

利尻島が好きな理由の一つに、祖父の存在があります。

祖父は本当におだやかな人で、祖父のことを思い出すと、必ず笑顔の姿が浮かびます。

何より、人に対していつも謙虚で、いつも感謝しているような優しい男です。

私はそんな祖父が大好きです。





祖父は漁師をやっている割に、世間一般的な漁師像とはかけ離れた人でした。

出掛ける時はジャケットを羽織り、頭にはハット。

イカラさんで、昔のモダンボーイのようです。

事実、祖父の昔の写真を見ると、なかなかの美男子。

キリっと涼しげな眼元で、まるで昭和の映画スターのようにカッコ良いです。


(おじいちゃん、こんなにカッコイイのになんでおばあちゃんと結婚したんだろう…?ww)



そして、非常に博学であり、家には昔の物・本があふれています。



特に多かったのは「第二次世界大戦」にまつわるものですが、島の古くからの記録や書物、過去の新聞を几帳面に切り抜いたスクラップブック、ヒデオテープ、ブリキのおもちゃやプラモデル、人形、古いアルバムなどが広い家のあちらこちらに山積みとなっていました。









母や母の妹は決まって、「父さん、いらないものは捨てなきゃダメだよ」と帰省するたびに注意していましたが、私はなんてことを言うんだ!!といつも憤慨していました(笑)



他の兄弟とは違い、歴史好きな私は、この記録にかなりの価値を見出していたのでw



この古い記録は貴重な資料だよ!宝の山なんだよ!!(怒)

と鼻息荒く叱ったものですw





そんな私のことを祖父も可愛がり、よく、戦争体験の話をしてくれました。

祖父>

「空襲の時にな。自分が狙われているのかをすぐに見分ける方法があるんだよ。戦闘機が自分に向かってきているように感じたら、まずは姿勢を低くするんだ。そして、自分の両目の間に指をたてる。その指の延長線上に戦闘機があるなら、自分が標的だ。とにかく逃げるしかない。指の延長線上から戦闘機が少しでも外れていたら、自分はその瞬間、命拾いをしたということ。ただ、忘れていけないのは、自分が狙われていないってことは、他の誰かが狙われているってことなんだ。それが戦争なんだよ。わかるかい?」




(ああ。祖父の中ではまだあの戦争は終わっていないんだ)とよく思ったものです。



家に、第二次世界大戦にまつわるものがあふれているのも、祖父があの戦争を一度たりとも忘れたことがない証明。






私には、



祖父が、

「何故、あの戦争はおきたのか」

「あの戦争は本当に正しかったのか」

と、


ずっと悩み続けているように見えるんです。

現在88歳になった今も、答えを探しているようにうつります。







今年、祖父の88歳の米寿を祝うために、久々に我が家の家族と、母の妹の家族が利尻島に集結しました。


私は社会人になってから、一度も利尻島にいっていません。

祖父に会うのも数年ぶりのことでした。





そこで祖父ははじめて、

詳細に、鮮明に、

自らが体験した生々しい「第二次世界大戦」の記憶を私に話してくれました。





そもそも祖父は利尻島の生まれです。

そんな祖父には、どんな戦争体験があるのだろう?

利尻島の祖父が、第二次世界大戦をどう考えていたのか。

なぜこんなにも戦争にまつわるものを集めるのか。


長年の疑問がありましたが、

その理由をはじめて明かしてくれたのです。





戦争が始まる前のことです。

学生だった祖父は、若い頃から好奇心旺盛で、実家の漁師を継ぐよりも「東京にいってみたい。広い世界をこの目で見てみたい」という想いが強かったようです。


ある日学校の方へ、東京の軍事工場での働き口の知らせが届き、祖父の胸はときめいたそうです。是非志願したい!…けれど自分は味噌家の長男。


両親、特に漁師の父は認めてくれないだろう。。


若き日の祖父は葛藤する想いを胸に、父に東京行きを申し出ました。


案の定、父は猛反対。


どうしても志願したい祖父は、学校の教員に父を説得して欲しいと頼み込みました。


面談を終える頃には、頑なに反対していたはずの父が、手のひらを返すように、東京行きを承諾。

「うちの子供を宜しくお願いします!」とその場で頭まで下げる変貌ぶりだったそうです(笑)


その時代、学校の教員というのは、尊敬されるような立場。

その先生から、「味噌君は自らお国の為に東京行きを志願しました。我が校の誇りです。」と声をかけられたもんで、父も認めざる終えなかったのでしょう。

思惑通り、祖父は東京行きの切符を手に入れました。



やがて学校を卒業すると、川崎の軍事工場で部品づくりの仕事に携わりました。


好奇心旺盛な祖父です。


お昼休みになると、同僚と多摩川で泳ぎ、

休みの日には多摩川沿いの道を、羽田空港に向かって歩きながら、東京の街並みを目に焼き付けました。

暇があれば、電車やバスであちこち出歩きます。

当時の乗り物には、女性の運転手が多かったらしく、祖父は驚いたと語っています。


お金がなくなると今度は自分の足でどこまででも歩きます。

そのため、祖父は東京の地理を88歳の今でも鮮明に覚えています。

特に驚いたのは、当時の電車の沿線の話です。

自分がどんな電車に乗ったのか、その電車の終着駅はなんていう駅か、車窓から見える風景一つひとつを祖父は覚えており、私にこまかく教えてくれるのです。


祖父>

「おじいちゃんは死ぬまでに、○○線から見えたあの風景をもう一度みたいな。今でも覚えているよ。透き通るような綺麗な川のせせらぎの音、青々とした緑の生命力、本当に美しい光景だった。おじいちゃん本当にあの風景が大好きでね。目的地に行くには少々遠回りになっちゃうんだけど、それでもあの風景をみたくて、わざわざその沿線に乗ってたんだ。」




インターネットなんて、全くなじみのない祖父。

私は早速、祖父の話からキーワードを絞り込み、祖父が愛した懐かしい風景の写真をみせてあげました。


その時の祖父の感動した表情は、この先の人生も忘れないと思います。





さて、話を戻しましょう。


東京生活で何より楽しかったのは、神保町で古本を探しにいくことだったようです。

読書が大好きな祖父にとっては、それは夢のような街でした。

当時よく利用していた貸本屋の話をいきいきと語る姿に、まるで私も昭和の時代にタイムスリップしたように、情景が目の前にありありと浮かんでくるようです。



社員寮は、2人で1部屋。

押し入れは、上段が祖父の荷物スペースでしたが、神保町で購入した古本がぎゅうぎゅうに詰め込まれていました。



同僚>

「味噌君。また本を買ってきたのかい?給料を全部本に使うなんて信じられないなー。」


祖父>

「僕は、ご飯を我慢してでも本さえあればいいんです。」


同僚>

「いやー。信じられないなー。」


と、同室の友人の目からも不思議な存在にうつっていたようです(笑)



ある日、祖父は同僚に誘われ、男4人で横浜の中華街に行きました。

テーブルに座り、なにげなく奥の厨房に目をやると、蛇を調理する光景が飛び込んできて、祖父は驚愕したようです。



祖父>

「蛇だ!僕はあんなもん、ぜったい食わないぞ!!蛇なんて、絶対食わない!!!」


友人>

「味噌君、何を言ってるんだ。あれほどうまいもんはないんだぞ。いいからちょっと食べてみれ!」


祖父>

「嫌だ!どんなに餓えようとも、僕は蛇だけは嫌だ!」




当時中華街では、蛇料理がさかんに振る舞われていたようです。高級食材だったとか。

東北出身の友人は、普段から蛇料理に慣れ親しんでいたようですが、利尻島出身の祖父は蛇になじみがありません。


どんなに友人が説得しようとも、頑なに食べることを拒み、とうとう祖父だけ何もたべずに帰ったようです(笑)



そんな楽しい日々の中で、祖父は社会人2年目を迎えました。




祖父>

「先輩になるとな、今度は新しく入社した新人教育を任せられるんだ。その年入社したのは女の子が4人だった。当時の女の人はな、大抵髪が長いもんで、こうやって後ろに縛るか、おさげ頭が普通だったんだけど、おじいちゃんの下に就いた花子という女の子はね。髪はおかっぱで、ほっぺたはぷっくりして、あどけなさを残した、それはそれは可愛らしい子だったんだ。」


それぞれの新人には、1人ずつ教育担当の社員があてがわれました。

早速祖父の席の横に、花子ちゃんは小さな体で危なっかしく、自分の机をヨイショ、ヨイショと運びます。


席に座ると、花子ちゃんは顔を赤らめながら、遠慮気味にこう言ったそうです。




花子>

「…味噌先輩。。今度からお名前を呼ぶ時は、先輩とお呼びしても宜しいでしょうか?」



その言葉に祖父はピーン!ときたようです。

職場では、名字に先輩と付けて呼ぶことが普通でしたが、祖父の名字は「味噌」。その純情な女の子は、それが少し恥ずかしかったらしいのです(笑)





全てを察した祖父は、いまも変わらないあの優しい口調で、



祖父>

「ああ、いいよ!お前の好きなように呼ぶといいよ」

と答えてあげました。


花子ちゃんは、安心したように、はにかんだ笑顔で、コクっとうなづいたようです。



神保町での本屋めぐり。

真新しい東京の街並み。

可愛い後輩。



利尻島では味わえない、刺激的で充実した日々。


こんな幸せな日常を、祖父はめいいっぱい謳歌しました。




祖父にとって一生忘れることができない、

東京大空襲がおきたのは、このすぐ後のことでした。





続く。